尺八協奏曲 「風は花となる」

· Concerto,Japanese Instrument

【世界初演】

Dozan Fujiwara 25th Anniversary Concert 藤原道山 オーケストラ・尺八アンサンブルと共に

〜山田和樹、藝大フィルハーモニア管弦楽団を迎えて〜

2025年11月30日(日)東京藝術大学奏楽堂

藤原道山(尺八)・山田和樹(指揮)・藝大フィルハーモニア管弦楽団

藤原道山は、現代の邦楽界において稀有な存在である。伝統的な尺八が纏ってきた「修行的な厳しさ」や「土臭さ」に一元的に回収されることなく、静謐で澄んだ響きから超絶的な技巧までを自在に操る。しかもその両極を軽やかに行き来し、ときに舞うように響きを解き放つ姿には、凄みとエレガンスが共存している。彼の身体を通して現れる――それは「彼を吹き抜ける風」。

――“Not I, not I, but the wind that blows through me”(D.H.ロレンス)――

その風はときに震え、舞い、奔りながら、花のように美しく顕れる瞬間を生む。それこそが本作のタイトル《風は花となる》の象徴するところである。

タイトルは直接的に世阿弥の「秘すれば花」に拠ってはいないが、その言葉に示された思想――秘めることで花(美)が顕れるという観点――とは、緩やかな連想の回路でつながっている。本作では、そのようなイマジネーションを糸口に、尺八とオーケストラの対話を描いている。

音楽的方向性は、藤原道山という演奏家に作品を書くという必然性のなかで、作曲者の意識と無意識の往還を経て、風に運ばれるように自然と収斂し、形をとっていった。

第1楽章 Not I, not I…

独奏曲《雨月ノハナカゴ》の素材を出発点としつつ、その文脈から離陸し、尺八はオーケストラと交わりながら自在に展開する。風の音は囁きから乱舞まで多彩な姿を見せ、浮かび、沈み、色を変えながら空間をめぐる。その流動は生成の運動であり、音楽は常に新たな相貌を生み出し続ける。

クライマックスでは大規模なトゥッティが鳴り響き、その後に現れるカデンツァは、雲間から差し込む月光のように背筋を凍らせる美を放つ。そこからフラジャイルで透明なメロディが現れ、オーケストラが繭のように優しく寄り添う。

やがてその調和は解け、音楽は再び風となる。それは谷間へと吹き下ろす風。ため息の断片が漂い、死の仄かな香りが忍び込む。すべては風に溶け、大気へと静かに解き放たれる。—— Not I, not I…

第2楽章 Re: Adagietto

第2楽章は、歴史的な Adagio / Adagietto への私的な応答として構想されている。めまぐるしくすべてが開示され、接続されてしまう時代にあって、ここで示されるのはあえて「秘める」ことの美であるのかもしれない。

音楽は弦楽器主体で静かにたゆたい、尺八は長い沈黙を経てようやく姿を現す。その旋律は、秘めた思いをそっと語るように、途切れがちに紡がれていく。だが、ありふれたロマンティックな高揚は持続せず、音楽はふと解け落ちる。

風鈴の音。
遠くから響く鐘。
波の音あるいはそれは風音かもしれない。
記憶は溶けてゆく。
私もけてゆく。

喪失――だ、波打ち際の静けさだけが残っている。
境界線が消えてゆく、そのみわに、私はまだ立っている。

第3楽章 Blooming Flight

第3楽章は、尺八のヴィルトゥオジティが華やかに解き放たれる楽章である。風は舞い、飛翔し、乱舞しながら花となる。軽やかさと超絶技巧が一体となり、音楽はひとつの舞踏のように展開する。

オーケストラは時に共鳴し、時に競い合いながら、尺八と鮮烈な対話を繰り広げる。その推進力はコンチェルトという形式の伝統を想起させつつも、特殊奏法とアーバンな音響を取り込んだオーケストレーション、変拍子的リズム、そして尺八固有の身体性と西洋的洗練との拮抗する両義性が火花を散らし、新たな地平を開こうとするものである。

やがて風は渦を巻き上げ、花は乱舞の光に呑み込まれる。
風と花、伝統と革新の交錯。
その瞬、風は花となり――Where the Wind Blossoms.

【放送】